モンタージュの夜

モンタージュでの裕康さんと亮さんとのことを書こうと思いながら、ついつい秋が進んでしまいました。
公演から1週間あった配信のことについてもご案内をしそびれたまま、ついに(とっくの昔に)配信も終わってしまいました。


「もう、一緒に演奏したい人と、演奏したい作品だけ、演奏していたいと思って」

と、裕康さんに声をかけていただいたのは、夏休みが始まる前くらいのことだったかと記憶しています。
裕康さんの言葉がどれくらい本心だったかは分かりませんが、やはりそんなふうに言っていただけるのは演奏家冥利に尽きるというか、たいへん嬉しかったです。

とはいえ、ブラームスもフリューリンクも、どちらも聴けば耳に美しい曲ですが、どちらも最初の1フレーズからいきなり息が苦しいので(そしてフリューリンクは全曲ずっと苦しい笑)、まだ練習し始めた頃は夏が暑くて、楽器出して譜面の前に座って、息を吸って、

…あかん。明日にしよ…

と、何回もなりました。あるいは、ブラームスだったら3楽章、フリューリンクだったら2楽章と、1や4のムツカシイところだけを取り出して練習してゴマカシた日が何日もありました。何日も。
苦しいんだもん。気が滅入る。それで、あんな暑さでは、本当に、全然頑張れない。クラクラするんですもん。滅入りました。だけど、裕康さんにあんなふうに言っていただいたんだもんな、と、夏の途中から、なんとか、うんとがんばりました。

もう頑張れないかもなとか、もうそろそろ自分で演奏会を企画したりするのはよそうかな、と、弱気になっていたところだったので、気持ちを立て直すのにちょっと重い腰を上げる必要がありましたが、やっぱり室内楽は楽しい。この人は今何を思っているか、何を見ているか、何を聴いているか。どうしたいと思っているか。私は、どうやったら、思いや流れを示せるか。どれくらい、共感してもらえる私でいられるか。どれくらい、あなたをわかる私でいられるか。至近距離(精神的には実際の距離よりもっと近いところ)で、耳と気持ちを研ぎ澄ませて、相手と自分の感覚の先の先まで遠慮なしに想像し合いわかり合おうとする室内楽の時間に、私の疲れた心はすっと掬い上げられたような思いがしました。私の真ん中は、やっぱりここにありました。

あんな近いところで初めて見た!、裕康さんのチェロ。恥ずかしくって、目なんか見られないから楽器のお腹の辺りをずっと見てるんです。でも、チェロって、弦楽器って、本当に、音がそのまま、姿となって見えるでしょう、それが本当に感激で、ずっと、裕康さんのひと弓ひと弓を見逃すまいと、見つめていました。落っこちそうにならないようにだけ気をつけて。
亮さんは、亮さんのピアノとは、それこそ本当にありがたいことに付き合いが長くなって、お互いに、もうほとんど何も言わなくてもお互いを分かるので、スッとわかってくれることに感激し、ハッとわかる自分にふふふとなったりします。彼なしに私のここ15年くらいは無かったので、感謝で一杯です。

残る人生はそんなに長くなくて、その時間は私のもの。
私も、演奏したい人と、演奏したい作品をしよう。「だけ」、というわけには、もうすこし、いかないかもしれないけど。