日本木管コンクール

11月の第1週後半は、兵庫県加東市(東条)のコスミックホールで日本木管コンクールの審査に参加させていただいてきました。
日本木管コンクールは、フルート部門とクラリネット部門が隔年で開催されていて、フルートにとっても、クラリネットにとっても、国内屈指の大きなコンクール。それを、小さな町とその地域ボランティアの皆さんが一手に引き受けて、もう30年以上も続けてくださっていることに、まず感謝と敬服と気持ちで一杯になります。

(…ここで、前置きを書き始めたら全然終わらなくて半月以上経ってしまったので、割愛します…)

審査員としてコンクールに参加させていただくのは、今回も、本当にたくさんの学びと気づきを授かることになりました。

審査の重責と、連日長時間集中して座り続けることと、数日ほぼ練習できないのを後から取り戻すのがどれだけ大変だとしても(後ろの2つは、年齢を重ねるにつれていよいよ本当にとても大変)、やっぱり、受ける立場として参加する方が何倍も大変だと、自分のことを振り返っても思います。
ひと夏を賭けて、人生を賭けてチャレンジするのですから、その日を迎えるまでの過酷な日々と、舞台に向かう悲壮感、失敗すればズタズタになり、うまく行っても評価に繋がらなかったり、もっと上をいく人がいればまた、ガッカリしたり。ひとつのコンクール脚光を浴びられる人はほんの一握りで、それ以外のほとんどの人は、ズタボロになって、しょんぼりして、帰っていく。
今回は、事前の録画審査を通過した80名余りが一次審査、そこから15人前後が二次審査へ進み、本選へは5人程度が残る、という規定でした(審査状況により実際の数は多少増減しました)。なので、多くの人がコンクールの舞台に立つこともなく画面の中だけで消え、東条まで来ることができた人たちも殆どが5分足らずの1曲を吹くだけで散ることになりました。
我々は、審査員という立場上、

【ほとんどの人に×をつけて、次に残すべき人を選ぶ】

のが仕事なので、それをするのですが、じゃあ、ほとんどの人の演奏が×なのか?と考えると、決してそうではないんですね。もちろん、演奏技能がまだ足りない人や、残念ながら思いがけない失敗をしてしまった人はいました。でも、コンクールという場でなければ、どんな人も×ではないし、みんなそれぞれに良いところがあるんですね。それは本当に分かってほしいし、それぞれがそれぞれに、良さを活かせる場で輝いてほしいと、改めて心の底から深く思いました。
その中で、コンクールを勝っていく人というのはやはり演奏に力があるし、バランスが取れていて、勢いがあって、流れに乗って、運やタイミングにも祝福された人のように感じます。誰にでもあることではないし、また、その人に、いつでも宿るものでもないと感じます。祝福された特別な時間です。

でも、何をおいてもやはり、勝った人も敗れた人も、自分の心と頭の中を自分のことで一杯にして、自分のためだけに集中して戦うことのできるあの若い時間とその姿を、本当に眩しく、羨ましく思い、こちらからはどの人も全員、輝いて見えました。
「先生」なんて呼ばれて、恭しく扱われて、若い人の演奏に⚪︎×を付けなきゃいけないような立場になったら、もうそこは外野です。⚪︎×つけられて大変でしょうけど、つけられているうちが「真ん中」なんですよ、と、本当に思いました。私だって、今からでも、もう誰のレッスンもしなくてよくて、アドバイスもしなくてよくて、ジャッジもしなくてよくて、自分の練習だけ懸命にしてたらいい若者に戻れるなら、戻りたいですもん。でも、戻れない。だから、今そこにいる人たちには、不安な今も、挑んでは敗れる今も、栄光を掴む一瞬の「今」も、大変だろうけど、本当の本当に二度と戻ってきませんから、うんと目いっぱい、苦しんで、楽しんで、頑張ってほしいです。

私も若い頃、そうやって、先生方や先輩方に腰や背中が痛い思いをさせて「真ん中」を提供していただいて、育てていただいて、音楽活動の現場へ入れていただいたんだなぁ…ということに、改めて深く思いを致しながら、しみじみする数日間でした。

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