第1番あるある

シューベルトの交響曲、「第1番」というのは私は初挑戦で、フリーントさんagainも楽しみでしたが、それとは別に、「第1番」をチョット楽しみにしていました。

モーツァルトの交響曲でもクラリネットが使われているのは後期の数曲くらいですから、クラリネットという楽器が、あぁこのあたりの頃から、こんなふうにして、世の中に、作曲家に、少しずつ認知され始めたんだな、というのが、本当によくわかるんです。もちろん、楽器の進化の具合も大いに影響あるでしょうが、それだけではないようにも思います。現代のように、世界のどこにいてもほとんど同時に「最先端」を共有できる時代でありませんから。

例えばベートーヴェンは、第1番から辛うじてクラリネットを座らせてくれていますが、でも、ほとんどまだ大したことをさせてもらえない。オーケストラ楽器としてすっかりベテランのフルートやオーボエやファゴットが何とも見事な働きぶりをする中で、「新しい楽器」として後から登場したクラリネットは、そーっと、大事に、様子を伺うように、あまり目立たずに、ちょっと吹く。まるで

「新入りのクラリネットちゃんはどれくらいむつかしいのが吹けるかわからないけど、ちょっと色を添えてね。ムリしないでいいからネ」

とでも言われているかのよう(個人の感想です)。それが何ともムズ痒くてたのしい。現代の我々は、その後のクラリネットが、あんな曲であんなソロを吹かされることも、あの人にあんなドぎついソロを書かれたことも、あれもこれも知っている(クラリネット奏者としては、そっちの洗礼を先に浴びることのほうが一般的)もんだから、なんだか、例えるとしたら、大人になって幼稚園のお椅子にソロリ座ってみるような、そんなきもちです。
今までにない「音色」を持っていることは確かだから、他の楽器と一緒に吹いても、チョット新しい響きがする。想像するに、当時の作曲家や聴衆にとってはそれだけでも十分に「新鮮な驚き」だったんじゃないでしょうか。次は、勇気を出して、ほんの少しだけ1人で吹かせてみる。おっ、良いじゃない!…この新しい楽器の出現に当時の聴衆はどれほどワクワクしただろうと、勝手な想像ですがそんなことを思ったりもします。

だんだんちょっとずつ細かい音符も吹かせてもらえるようになり、第2番を経て第3番「英雄」では結構イッチョマエに吹くようになります。第4番第2楽章ではあんなに美しいソロと、終楽章であんなにオソロシい曲芸を担当することになり、第5番ではあの冒頭《ジャジャジャジャーン》を、弦楽器に混じって、管楽器の中で唯一クラリネットが吹くことになる。この栄誉たるや。第6番「田園」はもはや超重要オーケストラスタディのオンパレード。第7番も第8番も重要な役割を果たし、最後はあのような第9番に至るのですから。ベートーヴェンの9つの交響曲を順に追うだけで、クラリネットという楽器がどんなふうに進化し、認められ、望まれて、オーケストラの中心選手の1人として躍り出ていくのかが容易に分かります。

シューベルトの第1番も、やっぱりそうでした。他の楽器の人たちが次々と難しそうなシゴトを華麗にしている中、クラリネットは時々吹くとしてもフルートのお兄さんについて行くように、オーボエのお姉さんといっしょに、ファゴットのお兄さんに手を引いてもらって、やっとやっと、あまり難しくないメロディを吹いていました(2番クラリネットは、ほとんど白い音符でした…逆に数えにくそうでした…)。ほんの一瞬だけ、1人になる時があったけど、それでも、半小節(2拍とか)がせいぜいというような具合で、逆に緊張する笑。でも、当時の、16歳のシューベルトが知る限りのクラリネットがここにあると思えば、とっても愛おしい。
最終楽章の終盤で、遂にクラリネットが管楽器代表としてヴァイオリンのお姉さんたちに混ざって一緒に旋律を担当したところ、聴き逃さなかったでしょうか。あそこが、ついに巣立ちの予感!感激なしには吹けませんでした笑。ここから、この先に、「未完成」でオーボエのお姉さんと堂々と渡り合うソロクラリネットがあるのですから。すごい。感動です笑

少しずつ知られて、少しずつ認められ、欠かせない存在となっていく明るい道の途中途中に、素晴らしいクラリネット奏者の存在があったことは想像に難くなく、そこにも、感謝のあまり手を合わせたくなるような気持ちです。なんだ、あんまり良い音じゃないな、なんだ、大した楽器じゃないな、と見限られていたら、下火になった時代があったはずですから。そして、クラリネットより後に生まれた新しい楽器のほとんどは、それぞれに魅力的であるものの、(オーケストラというジャンルに限って言えば)出場の機会は極めて限られているのですから。そんなことを考えると、クラリネットって、とても奇跡的で、幸運で、特別な楽器だと…クラリネットの人間は静かにむふふと思っています。