血の出るような

こんな中での演奏会開催なので、ただ漫然と音楽をやるだけではとても気持ちが保てないと思っていました。

ショスタコーヴィチは、平時の音楽では全くないので、その意味ではとても救いでした。

音楽の中では、現実世界では簡単に起こらないほうがよいような穏やかでないエネルギーが猛然と爆発してよいのだと思います。一方で、「こんな中ではとても生きていられない」と思うほどの厳しさが実人生の中では幾度も襲いかかってくるので、音楽の中にある祈りのような、深い慰めのような、静かで強い力が、心をすくい上げるのだと思います。そうであってこそ、芸術が存在する意味があると感じています。

血の出るような音。ざりざりとした摩擦。猛烈な怒り。慟哭。破壊。狂気。肉をむしり取られるような痛み。ひとすじの涙。立ち尽くす呆然。引き摺る足取りの重み。わずかな望み。諦め。人の手の温み。かすかな光。
例えばそんなことのひとつひとつを、持てる技術の全てを総動員して、心を迷わずドドドと注ぎ込んで、1つの音で表現する。まざまざと、そこにありありと見えるような音を。みんながそうだとは思いませんが、例えば、こんな時にのうのうと音楽を演奏する仕事をするならば、そうでなければ、私はとても居られない。今日ショスタコーヴィチを演奏できて、とてもヘトヘトだけれども、私は何となく救われました。私が今の毎日に感じているようなやるせなさや、何なんだと思うような気持ちは、ショスタコーヴィチのそれに比べたら、小さな小さなことだと思いました。


3楽章の例のシビレるソロは(何度吹いても生きた心地がしないもんです…)、今回は、高関マエストロから

「直前のオーボエが諦めの境地だとしたら、クラリネットのソロは、『でも、私はそうは思わない』というような、少し強い、反逆のような気持ちを滲ませてほしい。その後のフルートはまた諦めて。」

とのオーダーがありました。
これまで、オケスタの勉強として練習していた若い頃からずっと、いかに儚く吹くか、いかに危ない高音域を弱音でコントロールするか、ということに気持ちを注ぎ気味だったので、これはとても興味深いご指示でした。なので、今まで吹いたことないような大きさで吹きましたが(ブレスが続くかも心配なので限界はありました笑)、また新しい扉が開いたような気持ちです。明日ももう一回トライしてみることがとても楽しみです。もう一日、信心深い日を過ごします。神様神様…


危ない中を移動して、雨の中でもありました、ホールへ駆けつけてくださった方が、少しでも非日常のエネルギーを感じていただけたならとても嬉しいと思っています。ありがとうございました。



**おまけ**
私がいつも、教習でうまく運転できなくって激しくションボリしながらお昼を食べに(お茶のみに)行っては慰めてもらっていた、パパジョンズさんに、お礼と免許取得の報告を兼ねてお茶しに行きましたらば、ケーキに「おめでとう」の札を付けてサーブしてくださいましたーーーーなんてこったー!わーん涙涙涙。
北山のパパジョンズさん最高ですいつもありがとうございます☆☆☆
お姉さん、一見クールですけどお喋りしたら優しいです❤︎
Naoko Kotaniguchi Official Blog

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