閑話休題
「死んだらアカン」と言う大人に、自分がなるとは思っていなかったなぁ、と、先日蝶々夫人について書きながら、思っていました。
(すごく季節外れだけど堂々と咲いてるアサガオ。と、嵐電。タイミング外した!し、アングルがイマイチ!天気が良すぎて画面が全く見えなかった←言い訳)
15歳とか、その前後しばらくの頃、私は毎日のように (早く死にたい) と思っていた少女でした。成績はそこそこ良かったし、家庭に問題は無かったし、部活にも打ち込んでいたし、ハキハキと、たぶん人から見れば明るい子だったと思います。だけど、どうしようもなく、生きているのが嫌だった。具体的に何か辛いことがあったかといえば、それほどでもなかったと思うのに、自分が大人になることは全く想像できなかったし、将来の夢は?と聞かれても困るだけでした。ただノストラダムスの大予言をできれば信じたいと思っていて、そうすれば私はハタチそこそこで死ねる、それだけが何となく心の支えでした。
いま思えば、あの頃はただ長く将来を生きるイメージが出来なかったのと、思春期特有の面倒くささで漠然とメランコリックな気持ちが支配していただけなのかなぁと、そんな風に感じます。その後、進む道を具体的に決めて以降20代30代のほうがずっと辛いことがあったけど、意外ともう死ぬことは忘れていて、辛くても何でもとにかく必死にもがいていたようなそうでもないような。
座間で、凄惨な事件がありました。
死にたいとこぼす少女を本当に殺してしまう悪魔のような犯人のことはここでは触れませんが(彼にも、悪魔のような人間になってしまうに至る暗闇があったのでしょう)、死にたいと簡単に呟ける今のような便利な時代に生まれてしまった純粋そうな被害者の少女たちを本当に気の毒に思います。
若さを持て余してしまうのは、過ぎてみればほんの短い期間です。大人になったら、もっと耐えがたいような辛いこと悲しいことも沢山待っていますが、そのかわり、あぁ〜生きていて良かった!と心底思えるような嬉しいことや素晴らしいこと、そこまでじゃなくても小さくホッとすることやワッとなることが、ほんの時々ですがあるのです。そして、ともかくヨロヨロとでも生きていると、無為に思える自分の人生のすぐそばを、もっと生きていたかっただろうに無念にも早逝していく友人たちや、大切な人を亡くした悲しみを抱えながら生きていく人が、次々と通り過ぎていきます。その人たちに、生かされていることそのものの価値を教わることになる…私はそうでした。
あれ。
まぁ、そんな、アレです。
とりあえず、ごはんを食べて、生きましょう(*´꒳`*)
銭湯が好き。この日は、熱すぎるお湯に悶え苦しんでいるところへ、大衆演劇の追っかけをしてるというお姐さんに話しかけられて仲良くなりました。人生は、いろいろで、とても自由で、時々かなしいけど、おもしろいもんです。
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