祖母と母と私

4月の初旬に入院して、94年を生ききって旅立った、祖母の話の続きを書いてみます。


入院した時からずっと、今か今かと危ない状態が続いて、落ち着かない日々を過ごしていました。

それまで施設に入居していた祖母には、コロナの影響で2年近く会うことが叶わなかったのが、皮肉なもので、具合を悪くして入院してからは、病院ではごく限られた時間ではありましたが毎日面会を許されました。感染対策には細心の注意を払いながら、それでも、画面越しではなくじかに会え、互いに表情を確かめながら話が出来、手に触れることのできたしばらくは、本当に祖母からのプレゼントのような時間でした。毎日欠かさず面会に行く母の後ろをついて、私も仕事の都合のつくかぎりをつけて、できるだけ通いました。
(様々なリスクの可能性を黙って引き受けて、笑って受け入れてくださる看護師さんやお医者さん、スタッフの皆々様の凄みを日々感じました。先の長くない老人にとっての、家族が会いにくる価値、家族が話しかける効果を何より理解し尊重してくださっているようでした。他方で、高齢者施設には、それが分かっていても、いざ感染が広がった場合に打てる手と余裕が全くない厳しい労働環境なのだろうなと想像することもしました。どちらにも、お世話になった感謝しかありません。)

面会は、毎日できるとはいえ、《1日に15分・2人まで》と決まっていたので、父母、きょうだい、いとこたちや遠方のおじおばたちとも頻繁に連絡を取るようになりました。その間、元気だった頃の祖母のことや、さんざん可愛がってもらった子供時代からのことをしっかりと思い出しながら、甥姪たちも加えてみんなで懐かしい話をたくさんしました。自宅での看取りを考えたときも、家族みんなでいろんなことを話しました。それも、祖母がくれた大切な時間でした。

祖父を亡くして、すっかり元気をなくしてからの祖母のことを、ずっと見てきました。お医者さんも舌を巻くほど健康優良だった祖母が、ひとつひとつ、だんだんに弱っていく姿にも、たくさんのことを教わりました。その横で、なかなか現実を受け入れにくそうに、焦り、うろたえ、そのせいでつい強く当たってしまう、娘としての母を見てきました。「しっかり者の第一子長女」を絵に描いたような母が、まったくこれ以上ないというくらい祖母のケアをしているのに、どうして「優しいことば」だけは祖母にかけてあげることができないんだろう、ヨソのおばあちゃんにはあんなに優しいのに、と、疑問に思った時期も長くありました。違うんだ、私は「孫」だから、弱っていく祖母を受け入れるのが母よりは簡単なだけだ、と理解することが出来たのは、しばらく後のことでした。それからは、母自身が、祖母を喪った後にできるだけ後悔しないでいいように、それだけを祈って、可能な範囲で彼女のそばにやわらかめに居て、父と母の間にぬるりと居るようにもして、話を聞く役、必要な時には意訳翻訳加筆補筆…(大汗)…色々交えて、言葉だけが足りない彼ら!を繋ぐ役をするようにしていました。この数年の間に、母も、ゆっくりとですが、変化していきました。母自身がゆっくりと年をとっていることも確かにあるのだと思います。母の背中からも、私は娘として、たくさんのことを学びました。父の深い愛情にも何度も感動しました。

いよいよ最期のときが近づいてきた頃、母は、もう祖母に何とか食べさせようとするのを諦め、ありがとうね、ありがとうね、と、優しく言えるようになりました。最期の日の面会も、そうして穏やかに過ぎました。良かったなぁ、と、心から思いました。



祖母が祖母の家で暮らしていた最後のころ、祖母の家によく1人で泊まりに行って、大好きだった祖母のピカピカの台所で、祖父が生きていた頃より少し淋しくなった夕食と、祖父が一緒だった頃と同じスタイルの朝ごはんを食べながら、いろんな話をしていました。

「おばあちゃん、いつかおばあちゃんが死んだらな、おばあちゃんの台所道具、いくつか私が引き継がせてもらっていいかなぁ。」
「ええよ、何でも持っていき。」

そんな約束があったので、小さなミルク鍋と、手付きのザルと、祖母の作った料理の味が染み込んだ落とし蓋を、京都に連れて来ています。